館長エッセイ やっててよかった、博物館!by 唐澤るり子

その3 ◎ 紙のランドセル

 思い返せば、家庭での父はケチだった。生活費をぎりぎりまで切り詰め、それに耐えられなくなった母との攻防のあれこれは、幼心に感じたままに今も覚えている。すべては研究のために。それがわが家の基本ルールだった。
 そんな父が、気前よく買ってくれるものが一つある。それがランドセルだ。「七つまでは神のうち」、神様と人間界の境界線を歩んでいた幼い子が、無事に人間界の仲間入りを果たし、学校に上がることができた。そのことを寿ぐ気持ちが、けち心に勝ったのだろう。子にも孫にも、満面の笑みとともに贈ってくれた。
 このランドセルも、やはり時代を映す。カラフルな高級品が人気の昨今だが、戦時中は物資が不足する中、紙でランドセルが作られた。戦前にランドセルの素材として使われていた皮革は、軍靴に使用するために使用が制限され、その代用品として作られたのだ。博物館にはツルで編んだもの、柳の枝をかぶせに利用したもの、そしてこの紙製の三点を展示している。ただ、材質やどこで作られたかなど詳しいことはわからず、「ファイバー」と父が口にしていたことだけが、記憶にあった。
 そこに、その情報は突然もたらされた。ある日、来館者の女性がこの紙製を見て「私も紙のランドセルを使っていたの」とおっしゃった。詳しくお話を伺うと字はわからないけどその紙を「けんし」と言っていた、しかも近所(中野区上高田)にその「けんし工場」があったとのこと!! 「けんし?」……そうか、この紙を当時は「けんし」つまり「堅紙」と言っていたのかもしれない。確かに紙にしては硬い素材で、指でたたくとコツコツ、といった感じ。お客様も「筆箱がランドセルの中でカタカタいってた、ランドセルが革だったらこんな音しないでしょ」と、楽しげに思い出されていた。
 でも、この時はまだ「けんし」が「堅紙」なのか、半信半疑だった。そこで、上高田にあったという「けんし工場」が一体何を作る工場だったのか調べられないかと、即日中野区の図書館へ。「あの、戦前にあった区内の工場について調べたいんですが……」と、受付の方に尋ねたところ、すぐにレファレンス担当の方に話を通してくださり、分かり次第ご連絡くださるとのあたたかなご対応。そして、見事、中野区史の中からその会社が東洋ファイバーという会社で、大正12年の開業当初は帝国工場の分工場だったことを調べ出してくれた。父から聞いていた「ファイバー」という言葉と「堅紙」、この二つがつながった記念すべき瞬間だった。しかも、その工場がこんなに近く(歩いて20分ほど)にあったことに、感動すら覚えた。
 ファイバー(堅紙)は、「木綿やパルプの繊維を塩化亜鉛水溶液に浸して、膠(にかわ)化させ厚紙状に押し固めたもの」であることも、同時に分かった。この工場は北越東洋ファイバーの社名で、今も静岡にあり、ホームページを見ると第二次世界大戦当時の特殊用途として、ランドセルに用いたことが記されている。
 思わぬお客様の一言で、こんな貴重な情報が得られた。出会いに感謝の一日だった。

その2 ◎ 作品は時代の鏡

 50年前といえば、父のコレクションはマスコミ界で有名だった。何しろ床を埋め尽くす膨大な資料に囲まれながら、自ら開拓した研究方法「モノが語る日本人の人間形成史」を熱く語る姿は、他を圧倒する勢いがあった。読売新聞でも「今年の100人」に選ばれ、注目されるまではよかったのだが、その寸評に「教育界の古道具屋」と書かれ、家族は少なからずムッとした。が、当の本人は全く意に介さず、愉快そうですらある。信念に従えば、周りの評価はたいして気にならないものだそうだ。
「週刊新潮」の名物連載「掲示板」に、例にたがわず熱き思いを語り、失われつつある教育史資料の保存を訴え、よろしければご協力を、と寄贈のお願いをしたところ、全国からありがたいお申し出をいただいた。そうして届けられたモノの中の一つに、たいそう立派な戦前の子どもの作品集がある。姉と弟、昭和4年から13年まで、尋常小学校時代の答案や図画、作文、習字といった一枚一枚が、きちんと学期ごとに製本されている。子どもの成長の記録を少しも見逃すまいと、宝物のごとくまとめられており、ご両親の愛情を深く感じるものだ。
 この作者であり、寄贈者でもあったK氏から突然お電話を頂戴した。きっかけは、この夏、産経新聞に掲載された博物館の紹介記事をご覧になり、急にいろいろなことが思い出され、懐かしくなられたとのこと。私自身は面識のない方だったが、1年生ながらも字が上手で、元気なクレヨン画を描く少年は一体どんな人になったのだろう、そしてどんな人生を送られたのだろう、とモノを通して思いを巡らせていたので、ご当人からご連絡をいただけたことは千載一遇のチャンス、とばかりに嬉しかった。暑さもひと段落した9月、ご高齢にもかかわらず、奥様とお友達と連れ立って、半世紀ぶりに訪ねてくださった。新聞記者を経てテレビマンになられたK氏は、ブログ「老人タイムス」を日々更新し、まさに生涯現役を実践される気骨ある紳士だ。80年ぶりにご自身の作品と対面されたご感想は、blog.goo.ne.jp/bagus_2006の9月30日版に綴られている。
 教科書と違い、子どものノートや作品は意外と残されていない。教育制度や法律といった、上から目線の教育史の研究に限界を感じた父は、教育現場の実態に迫るべく、子どもが実際に学んだ教科書やノート、学用品などを積極的に集め、分析し著作物として発表した。K氏の作品も、『図説明治百年の児童史』に活用させていただいている。昭和初期の明るくのびやかな雰囲気から、満州事変、上海事変を経て、日中戦争がはじまり、子どもの世界にも軍国の気配が忍び寄ってくる。姉の分が6年生まで欠くことなくあるのに比べ、弟のK氏の分が昭和13年の2年生で突如終わっているのも、国家総動員法が発令され、物資が滞り、製本できなかったことの証明だ。子どもの作品は、時代を映す貴重な資料なのだ。
 翻って、私の作品物はどうなったのか? 長女のモノは大事に保管されているのに、今まで目にしたことがない。やはり、自然と出来の良い子の作品しか残らないものなのだろうか。

その1 ◎ 50年コンパス

 父が本格的に資料の収集をしていたのは、私が小学生のころだった。ときには古道具屋や旧家の蔵の資料探しにお供をしたが、とくに歴史が面白いと思ってのことではなかった。うちでは子どもが見ていいテレビ番組がニュースと時代劇しかなかったので、岡っ引きのもつ十手や銭形平次が投げる古銭にすこし興味があっただけだ。そのころは、普通の女子なら誰もが思うように、古いモノが幅をきかせて足の踏み場もないような暮らしが嫌で、いつかすっきりした清潔な空間に住むのが夢だった。
 歴史が面白いと思い始めたのは50歳のころだ。私は三姉妹の末っ子で、父が44歳の時に生まれた。父もまた、九人兄弟の末っ子で、祖父が45〜46歳の時に生まれた。元号でいえば、私が昭和、父は明治、祖父は何と慶応生まれなのである。
「えっ、慶応!? おじいちゃんが江戸時代に生まれた人!!」
これは、少なからずショックだった。私が生まれたころには、祖父はこの世にはおらず、写真で見るだけの存在だったが、円満そうなお顔に親しみを感じていた。この祖父が江戸時代に生を享けた人とは。この驚きが歴史に親しみを覚えた瞬間だった。
 自分が生きた時間のスケールが50年。このスケールではかれば、私の人生二つ分が父の生まれた明治、三つ分が祖父の生まれた慶応。頭の中で、そのときを基点に、50年コンパスをクルッ、クルッと三度回してみた。なんだ、時代劇でしか縁がないと思っていた江戸時代は、こんなに身近なものなんだ。
そう思ってモノを見ると、まったく違って見えてくるのが、ほんと面白い。「昔の」「古い」といった無味乾燥なモノではなくて、一つひとつに個性が見えてくる。明治初期の資料も、おじいちゃんが子供のころ、と思えば堅苦しくない。
 いまや、そのコンパスも六十数年だ。江戸はますます近くなってくるのである。